P--1069 P--1070 P--1071 #1御伝鈔 #2上 本願寺聖人親鸞伝絵 上 夫聖人の俗姓は藤原氏 天児屋根尊二十一世の苗裔大織冠{鎌子内大臣} の玄孫近衛大将右大臣{贈左大臣}従一位内麿公 {号後長岡大臣或号閑院大臣 贈正一位大政大臣房前公孫大納言式部卿真楯息なり} 六代の後胤弼宰相有国卿五代の孫 皇太后宮大進有範の子なり しか あれは朝廷につかへて霜雪をもいたゝき 射山にわしりて栄華をもひらくへかりし人なれとも 興法の因う ちにきさし利生の縁ほかにもよほしゝによりて 九歳の春の比阿伯従三位範綱卿{于時従四位上前若狭守後白河上皇の近臣也上人の養父} 前大僧正{慈円慈鎮和尚是也 法性寺殿御息月輪殿長兄} の貴坊へ相具したてまつりて 鬢髪を剃除したまひき範宴少納言公と号す  それよりこのかたしは〜南岳天台の玄風をとふらひて ひろく三観仏乗の理を達しとこしなへに楞厳横川 の余流をたゝへて ふかく四教円融の義にあきらかなり 第二段 建仁第一の暦春のころ{上人廿九歳}隠遁のこゝろさしにひかれて源空聖人の吉水の禅房にたつねまいりたまひき  P--1072 これすなはち世くたり人つたなくして難行の小路まよひやすきによりて易行の大道におもむかんとなり 真 宗紹隆の大祖聖人ことに 宗の淵源をつくし教の理致をきはめてこれをのへたまふに たちところに他力摂 生の旨趣を受得し あくまて凡夫直入の真心を決定しまし〜けり 第三段 建仁三年{癸亥}四月五日の夜寅の時 上人夢想の告まし〜きかの記にいはく 六角堂の救世菩薩顔容端厳 の聖僧の形を示現して 白衲の袈裟を著服せしめ広大の白蓮華に端坐して善信に告命してのたまはく  行者宿報設女犯我成玉女身被犯 一生之間能荘厳臨終引導生極楽といへり 救世菩薩善信にのたまはくこれ はこれわか誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむへしと云云 爾時善信夢の中にあ りなから御堂の正面にして東方をみれは 峨峨たる岳山ありその高山に数千万億の有情群集せりとみゆ そ のとき告命のことく此文のこゝろを かの山にあつまれる有情に対して説きかしめ畢とおほえて夢さめ畢ぬ と云云 つら〜この記録を披てかの夢想を案するに ひとへに真宗繁昌の奇瑞念仏弘興の表示なり しか あれは聖人後の時おほせられて云 仏教むかし西天よりおこりて経論いま東土に伝る これひとへに上宮太 子の広徳山よりもたかく海よりもふかし 我朝欽明天皇の御宇にこれをわたされしによりて すなはち浄土 の正依経論等この時に来至す 儲君もし厚恩をほとこしたまはすは凡愚いかてか弘誓にあふことをえん 救 P--1073 世菩薩はすなはち儲君の本地なれは垂跡興法の願をあらはさんかために本地の尊容をしめすところなり 抑 また大師聖人{源空}もし 流刑に処せられたまはすは我また配所におもむかんや もし我配所におもむかすんは 何によりてか辺鄙の群類を化せん是なを師教の恩致なり 大師聖人すなはち勢至の化身太子また観音の垂跡 なり このゆへに我二菩薩の引導に順して如来の本願をひろむるにあり 真宗これによりて興し念仏これに よりてさかんなり これ併ら聖者の教誨によりて更に愚昧の今案をかまへす かの二大士の重願たゝ一仏名 を専念するにたれり いまの行者錯て脇士に事ることなかれたゝちに本仏を仰へしと云云 故に上人親鸞傍 に皇太子を崇たまふ けたしこれ仏法弘通の浩なる恩を謝せんかためなり 第四段 建長八年{丙辰}二月九日の夜寅の時 釈蓮位夢想の告に云く聖徳太子親鸞上人を礼し奉て曰 敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中決定即得無上覚也 しかれは祖師上人は弥陀如来の化身にてまします といふことあきらかなり 第五段 黒谷の先徳{源空}在世のむかし矜哀のあまり 或時は恩許を蒙て製作を見写し或時は真筆を下して名字を書賜 P--1074 す すなはち顕浄土方便化身土文類の六に云{親鸞上人撰述} しかるに愚禿釈鸞建仁辛酉の暦 雑行をすてゝ本願 に帰し元久乙丑の歳恩恕をかうふりて選択をかく 同年初夏中旬第四日 選択本願念仏集の内題の字ならひ に南無阿弥陀仏往生之業 念仏為本と釈綽空と 空の真筆をもてこれをかゝしめたまひ 同日空の真影まう しあつかり図画したてまつる 同二年閏七月下旬第九日 真影の銘は真筆をもて南無阿弥陀仏と若我成仏十 方衆生 称我名号下至十声若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生の真文 とをかゝしめたまひ 又夢の告によりて綽空の字を改て 同日御筆をもて名の字を書しめたまひをはりぬ  本師聖人今年七旬三の御歳なり 選択本願念仏集は禅定博陸{月輪殿兼実法名円照}の教命によりて選集せしめたまふとこ ろなり 真宗の簡要念仏の奥義これに摂在せり見ものさとりやすし まことにこれ希有最勝の華文無上甚深 の宝典なり 年をわたり日をわたりその教誨を蒙るの人千万なりといへとも 親といひ疎といひこの見写を うるの徒はなはたもてかたし しかるにすてに製作を書写し真影を図画す これ専念正業の徳なりこれ決定 往生の徴なり よて悲喜の涙をおさへて由来の縁をしるすと云云 第六段 凡源空聖人在生のいにしへ他力往生の旨をひろめたまひしに 世あまねくこれに挙り人こと〜くこれに帰 しき 紫禁青宮の政を重する砌にもまつ黄金樹林の蕚にこゝろをかけ 三槐九棘の道を正する家にも直に四 P--1075 十八願の月をもてあそふ 加之戎狄の輩黎民の類これをあふきこれを貴すとゆふことなし 貴賤轅をめくら し門前市をなす 常随昵近の緇徒そのかすあり都て三百八十余人と云云 しかりといへとも親その化をうけ 懃にその誨をまもる族はなはたまれなり わつかに五六輩にたにもたらす 善信聖人或時申したまはく 予 難行道を閣て易行道にうつり 聖道門を遁て浄土門に入しより以来 芳命をかうふるにあらすよりはあに出 離解脱の良因をたくはゑんや よろこひのなかのよろこひなにことかこれにしかん しかるに同室の好を結 てともに一師の誨をあふく輩これ多といへとも 真実に報土得生の信心を成したらんこと自他をなしくしり かたし 故に且は当来の親友たるほとをもしり且は浮生の思出ともしはんへらんかために 御弟子参集の砌 にして出言つかふまつりて面面の意趣をも試んとおもふ所望ありと云云 大師聖人云この条もともしかる へし すなはち明日人人来臨の時おほせられいたすへしと しかるに翌日集会のところに上人{親鸞}のたまはく 今日は信不退行不退の御座を両方にわかたるへきなり 何れの座につきたまふへしともおの〜示したまへ とその時三百余人の門侶みなその意をゑさる気あり ときに法印大和尚位聖覚并に釈信空上人法蓮信不退の 御座に著へしと云云 次に沙弥法力{熊谷直実入道}遅参してまうして云善信御房の御執筆なにことそやと 善信上人 のたまはく信不退行不退の座をわけらるゝなりと 法力房まうして云しからは法力もるへからす信不退の座 にまいるへしと云云 仍これをかきのせたまふ こゝに数百人の門徒群居すといへとも更に一言をのふる人 P--1076 なし これ恐くは自力の迷心に拘て金剛の真信に昏かいたすところ歟 人みな無音のあひた執筆上人{親鸞}自名 をのせたまふ やゝ暫ありて大師聖人おほせられてのたまはく 源空も信不退の座につらなりはんへるへし と そのとき門葉あるひは屈敬の気をあらはしあるひは鬱悔のいろをふくめり 第七段 上人{親鸞}のたまはくいにしへわか大師聖人{源空}の御まへに 聖信房勢観房念仏房以下のひと〜おほかりしと き はかりなき諍論をしはんへることありきそのゆへは 聖人の御信心と善信か信心といさゝかもかはると ころあるへからすたゝひとつなりとまうしたりしに このひと〜とかめて云善信房の聖人の御信心とわか 信心とひとしとまうさるゝこといはれなしいかてかひとしかるへきと 善信まうして云なとかひとしとまう さゝるへきやそのゆへは 深智博覧にひとしからんともまうさはこそまことにおほけなくもあらめ 往生の 信心にいたりてはひとたひ他力信心のことはりをうけたまはりしより以来全くわたくしなし しかれは聖人 の御信心も他力よりたまはらせたまふ善信か信心も他力なり 故にひとしくしてかはるところなしとまうす なりとまうし侍しところに 大師聖人まさしく仰られて云 信心のかはるとまうすは自力の信にとりてのこ となり すなはち智慧各別なるゆへに信また各別なり 他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまは る信心なれは 源空か信心も善信房の信心もさらにかはるへからすたゝひとつなり わかかしこくて信する P--1077 にあらす信心のかはりあふておはしまさんひと〜は わかまいらん浄土へはよもまいりたまはしよく〜 こゝろえらるへきことなりと云云 こゝに面面舌をまき口を閉てやみにけり 第八段 御弟子入西房上人{親鸞}の真影をうつし奉とおもふ心さしありて日ころをふるところに 上人その心さしあるこ とをかゝみて仰られて云 定禅法橋{七条辺に居住}にうつさしむへしと入西房鑑察の旨を随喜してすなはちかの法橋 を召請す 定禅左右なくまいりぬすなはち尊顔に向ひ奉てまうして云 去夜奇特の霊夢をなん感するところ なり その夢の中に拝し奉るところの聖僧の面像 いま向ひ奉る容貌にすこしもたかふところなしといひて たちまちに随喜感歎の色ふかくしてみつからその夢をかたる 貴僧二人来入す一人の僧のたまはく この化 僧の真影をうつさしめんとおもふこゝろさしありねかはくは禅下筆をくたすへしと 定禅問て云かの化僧た れひとそや 件の僧の云善光寺の本願の御房これなりと こゝに定禅掌をあはせ跪きて夢の中におもふやう さては生身の弥陀如来にこそと身の毛よたちて恭敬尊重をいたす また御くしはかりをうつされんに足ぬへ しと云云 かくのことく問答往復して夢さめをはりぬ しかるにいまこの貴坊にまいりてみたてまつる尊容 夢の中の聖僧にすこしもたかはすとて随喜のあまりなみたをなかす しかれは夢にまかすへしとていまも御 くしはかりをうつし奉りけり 夢想は仁治三年九月二十日の夜なり つら〜この奇瑞をおもふに聖人弥陀 P--1078 如来の来現といふこと炳焉なり しかれはすなはち弘通したまふ教行おそらくは弥陀の直説といひつへし  あきらかに無漏の慧灯をかゝけてとをく濁世の迷闇をはらし あまねく甘露の法雨をそゝきてはるかに枯渇 の凡惑を潤んかためなりと仰くへし信すへし P--1079 #2下 本願寺聖人親鸞伝絵 下 第一段 浄土宗興行によりて聖道門廃退す これ空師の所為なりとて忽に罪科せらるへきよし南北の碩才憤まうしけ り 顕化身土文類の六に云 窃に以れは聖道の諸教は行証ひさしくすたれ 浄土の真宗は証道いまさかんな り しかるに諸寺の釈門教にくらくして真仮の門戸をしらす 洛都の儒林行にまとひて邪正の道路を弁るこ となし こゝをもて興福寺の学徒 太上天皇{諱尊成号後鳥羽院}今上{諱為仁号土御門院}聖暦承元丁卯歳仲春上旬の候に奏達す 主上臣下法にそむき義に違しいかりをなしあたをむすふ これによりて真宗興隆の大祖源空法師 ならひに 門徒数輩罪科をかんかへすみたりかはしく死罪につみす 或は僧の儀をあらため姓名を賜て遠流に処す予は その一なり しかれはすてに僧にあらす俗にあらすこのゆへに禿の字をもて姓とす 空師ならひに弟子等諸 方の辺州につみして五年の居諸をへたりと云云 空聖人罪名藤井元彦配所土佐国[幡多] 鸞聖人罪名藤井善信 配所越後国[国府] このほか門徒死罪流罪みなこれを略す 皇帝{諱守成号佐渡院}聖代建暦辛未歳子月中旬第七日 P--1080 岡崎中納言範光卿をもて勅免 このとき聖人右のことく禿の字をかきて奏聞したまふに 陛下叡感をくたし 侍臣おほきに褒美す 勅免ありといへともかしこに化を施さんかためになをしはらく在国したまひけり 第二段 聖人越後国より常陸国にこへて 笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ 幽棲を占といへとも道俗あと をたつね 蓬戸をとつといへとも貴賤ちまたにあふる 仏法弘通の本懐こゝに成就し衆生利益の宿念たちま ちに満足す この時聖人仰られて云 救世菩薩の告命をうけしいにしへのゆめすてにいま符合せりと 第三段 聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに おほよそ疑謗の輩はすくなく信順の族はおほし しかる に一人の僧{山臥と云云}ありてやゝもすれは仏法に怨をなしつゝ結句害心をさしはさみて聖人をより〜うかゝひ たてまつる 聖人板敷山といふ深山をつねに往反したまひけるに かの山にして度度あひまつといへともさ らにその節をとけす つら〜ことの参差を案するにすこふる奇特のおもひあり 仍聖人に謁せんとおもふ こゝろつきて禅室にゆきてたつねまうすに上人左右なくいてあひたまひけり すなはち尊顔にむかひたてま つるに害心忽に消滅してあまさへ後悔のなみた禁しかたし やゝしはらくありてありのまゝに日来の宿鬱を 述すといへとも聖人またをとろけるいろなし たちところに弓箭をきり刀杖をすて 頭巾をとり柿の衣をあ P--1081 らためて仏教に帰しつゝ 終に素懐をとけき不思議なりしことなり すなはち明法房これなり上人これをつ けたまひき 第四段 聖人東関の堺をいてゝ華城の路におもむきまし〜けり ある日晩陰に及て箱根の嶮阻にかゝりつゝ はる かに行客の蹤を送てやうやく人屋の枢に近くに 夜もすてに暁更にをよんて月もはや孤嶺にかたふきぬ と きに聖人あゆみよりつゝ案内したまふに まことに齢傾きたる翁の正く装束したるか いとことゝなく出あ ひ奉て云やう 社廟ちかき所のならひ巫ともの終夜あそひし侍るに 翁もましはりつるかいまなんいさゝか 仮寐侍るとをもふほとに 夢にもあらすうつゝにもあらて権現仰られて云 たゝいまわれ尊敬をいたすへき 客人この路を過たまふへきことあり 必す慇懃の忠節を抽てことに丁寧の饗応をまうくへしと云云 示現い また覚をはらさるに貴僧忽爾として影向したまへり 何そたゝ人にましまさん神勅これ炳焉なり 感応もと も恭敬すへしといひて尊重屈請し奉て さま〜に飯食を粧ひいろ〜に珍味を調へけり 第五段 聖人故郷に帰て往事をおもふに年年歳歳夢のことし幻のことし 長安洛陽の棲も跡をとゝむるに懶とて扶風 馮翊ところ〜に移住したまひき 五条西洞院わたりこれ一の勝地なりとてしはらく居をしめたまふ 今比 いにしへ口決を伝へ面受をとけし門徒等 をの〜好をしたひ路をたつねて参集したまひけり そのころ常 P--1082 陸国那荷西郡大部郷に平太郎なにかしといふ庶民あり 聖人の訓を信して専らふたこゝろなかりき しかる にある時件の平太郎所務に駆れて熊野に詣すへしとて ことの由を尋まうさんかために聖人へまいりたるに 仰られて云 それ聖教万差なりいつれも機に相応すれは巨益あり 但し末法の今の時聖道門の修行におひて は成すへからす すなはち我末法時中億億衆生起行修道未有一人得者といひ 唯有浄土一門可通入路と云云 これ皆経釈の明文如来の金言なり しかるにいま唯有浄土の真説に就て 忝かの三国の祖師おの〜この一 宗を興行す 所以に愚禿勧るところ更に私なし 然に一向専念の義は往生の肝腑自宗の骨目なり すなはち 三経に隠顕ありといへとも文といひ義といひともにもて明なるをや 大経の三輩にも一向と勧て流通にはこ れを弥勒に付属し 観経の九品にもしはらく三心と説てこれまた阿難に付属す 小経の一心終に諸仏これを 証誠す これによりて論主一心と判し和尚一向と釈す 然はすなはち何の文によるとも一向専念の義を立す へからさるそや 証誠殿の本地すなはち今の教主なり 故にとてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて 和光の垂跡を留たまふ 垂跡を留る本意たゝ結縁の群類をして願海に引入せんとなり しかあれは本地の誓 願を信して一向に念仏をことゝせん輩 公務にもしたかひ領主にも駆仕して その霊地をふみその社廟に詣 せんこと更に自心の発起するところにあらす 然は垂跡にをひて内懐虚仮の身たりなから強に賢善精進の威 儀を標すへからす たゝ本地の誓約にまかすへしあなかしこ〜神威をかろしむるにあらす ゆめ〜冥眦 をめくらしたまふへからすと云云 これによりて平太郎熊野に参詣す 道の作法とりわき整る儀なしたゝ常 P--1083 没の凡情にしたかひてさらに不浄をも刷ことなし 行住坐臥に本願をあふき造次顛沛に師教をまもるには たして 無為に参著の夜件の男夢に告云 証誠殿の扉を排て衣冠たゝしき俗人仰られて云 汝何そわれを忽 緒して汚穢不浄にして参詣するやと その時かの俗人に対座して聖人笏爾としてまみえたまふ その詞にの たまはく かれは善信か訓によりて念仏するものなりと云云 こゝに俗人笏をたゝしくしてことに敬屈の礼 を著しつゝ かさねて述ところなしとみるほとにゆめさめをはりぬ おほよそ奇異のおもひをなすこといふ へからす 下向の後貴坊にまいりて委くこの旨をまうすに 聖人そのことなりとのたまふこれまた不思議の 事なりかし 第六段 聖人弘長二歳{壬戌}仲冬下旬の候よりいさゝか不例の気まします それよりこのかた口に世事をましへすたゝ 仏恩のふかきことをのふ 声に余言をあらはさすもはら称名たゆることなし しかうして同第八日{午時}頭北 面西右脇に臥たまひてつゐに念仏のいきたえをはりぬ ときに頽齢九旬にみちたまふ 禅房は長安馮翊の辺 {押小路南万里小路東}なれは はるかに河東の路を歴て洛陽東山の西麓 鳥部野の南の辺延仁寺に葬したてまつる 遺骨 を拾て同山の麓 鳥部野の北の辺大谷にこれをおさめ畢ぬ しかるに終焉にあふ門弟勧化をうけし老若 を の〜在世のいにしへをおもひ滅後のいまを悲みて恋慕涕泣せすといふことなし P--1084 第七段 文永九年冬のころ東山西麓 鳥部野の北大谷の墳墓をあらためて 同麓よりなを西吉水の北の辺に 遺骨を 堀渡て仏閣を立影像を安す この時に当て聖人相伝の宗義いよ〜興し 遺訓ます〜盛なること頗る在世 のむかしにこへたり すへて門葉国郡に充満し 末流処処に遍布して幾千万といふことをしらす その稟教 を重してかの報謝を抽る輩 緇素老少面面にあゆみを運て年年廟堂に詣す 凡聖人在生の間 奇特これおほ しといへとも羅縷に遑あらす しかしなからこれを略するところなり   [奥書云]   [右縁起図画之志偏為知恩報徳不為戯論狂言剰又染紫毫拾翰林其体尤拙其詞是苟付冥付顕有痛有恥雖然只憑後見賢者之取捨   無顧当時愚案之&M035270;謬而已]    [于時永仁第三暦応鐘中旬第二天至&M013952;時終草書之篇畢]                                  [画工 法眼 浄賀]{号康楽寺}   [暦応二歳{己卯}四月廿四日以或本俄奉書写之先年愚筆之後一本所持之処世上闘乱之間炎上之刻焼失不知行方而今不慮得荒本記   留之者也耳]      [康永二載{癸未}十一月二日染筆訖]                                  [桑門 釈 宗昭]                                  [画工 大法師 宗舜]{康楽寺弟子}